こんにちは!Lily,Jrです。

前の記事で書いたが、仕事を先月、辞めた。退職代行サービスを使ったので、辞めた会社からは非常に恨みを買ったと思う。今俺が住んでいるのは北海道の田舎で、人口が2万人にも満たない小規模自治体に住んでいるので、気を抜いてスーパーにでも行けば会社の従業員・関係者と鉢合わせになることが大いにあり得る。よって、ここ最近は指名手配中の逃亡犯のような気持ちで生きており、外出は基本的に夜にしている。
早くこの田舎を出たいので、就職活動をしているのだけど、心の奥では本当は働きたくないので、もっと金銭的に追い詰められてからなあなあで働き口を探せばいいとどこか思っていたのだが、税金と社会保険の請求が来て、その自己負担額に驚き、やっぱりちょっと焦ってきた。近況はそんな感じ。
さて、無職となってからも、なかなか「俺の東京タワー」制作プロジェクトを進めることができないでいたのだが、それでも少し生活の中で芸術的なことに頭を使うことができる余裕が生まれたので、色々と考えを巡らせる日々を送っている。
そこで、今俺はこんなことを考えている、というのを発表したい。
目次
①リアルに近づくには、リアルでないことをしないといけないということ
◾️リアルでないといけないという強迫観念
「リアル」これは俺が今好きな芸人の永野がよく使っている言葉なんだけど、自分の中でしっくりきたので、俺も使うことにした。リアルというのは、文字通り「本当」のことなんだけど、俺はリアルじゃないことはやりたくないとずっと思ってきた。
何かを作ったり、言ったりする時、リアルでないということが俺は許せなかった。例えば、何か文章を書くなら、その瞬間思ったことは全て網羅して書かないといけないと思っていた。また、こんなことを書こう、と頭の中で描いていたとしても、書いていて何かノレない、やっぱりそうじゃないかもしれないと思ったら、そこに自分で文章の中で突っ込みを入れることを、無限に繰り返さないといけないと思っていた。
つまり、自分の思考の流れを完全に成果物に反映させること(=リアルなこと)をしないといけないとでも言おうか、そういう気持ちをずっと持っていた。
が、これはいわゆる強迫観念だったな、と最近思っている。強迫観念というのは、日常の生活に支障を来すような、いわゆる強迫行動を繰り返してしまう不安のことと言われている。俺は何かを作ったり、言ったりすることの中で、「リアルでないといけない」という強迫観念に駆られ、何というか、本来できることをできなくするような強迫行動を繰り返していた、と思う。
◾️リアルさへのこだわりに折り合いをつける時がきた
また、この前、ふと頭にこんなフレーズが浮かんだ。
「全てを説明するためには、全てを説明してはいけないし、生(なま)でなくていじらないといけない。」
「全てを説明すること」そんなことは、多分不可能だ。だが、全てを説明することに近づくことができるとすれば、それは全てを説明しないと決めることだろう、と思った。
そして、全てを説明することの具体例として、何においても生の状態そのままで提示しないといけない、という気持ちを持っていたけど、これも誤りで、いじらないとダメなのだ。生のままで何かを提示したら、全てを説明することからは遠のいていく。いじらないといけない。このフレーズを説明するとすれば、こんな感じの意味だ。
また、「全てを説明すること」は「リアルであるべし」という自分の信念の具体化なので、このフレーズを「リアルに近づくには、リアルでないことをしないといけない」と言い換えることができるだろう。
このフレーズというか、天啓が降りてきた時、カルチャーショックを感じた。また、自分の中の長年のしこりがとれたような感じで、勇気が出た。他の人は比較的問題意識に挙げていないようなことを自分は問題意識にしていたので、もしかしたら当たり前のことかもしれないし、そもそも他の人には意味がわからないかもしれないが、俺には天啓だった。
◾️何故こんなことになったのか、やっぱりよくわからない
何故こんな強迫観念を持つようになったのか考えてみる。深掘りしたらきりがないと思うし、自分でもわからないのだけど、思いつくことを挙げていくとすれば、「何か自分が作品を作って世の中に発表して、その時その時に満足をする」というのだろうか、そういう健全なサイクルを、自分が思うようにこれまで築いていくことができなかったことに由来すると思う。
健全な制作のサイクルを築けないので、強い強いフラストレーションが溜まり続けた。そして、そのフラストレーションは、その強さに見合った強度で解消されないと割に合わないと思ってきた。つまり、強い強度の何かを作って、強い強度の満足感を得ないといけないと思うようになった。そして、何か「作品」みたいな、自分が作るのもの強度は、リアルなことを、自分をいじめるように、無限に追求することで生まれるみたいな強迫観念を持つようになり…いや、これはよく考えれば循環している。
何故なら「健全な制作のサイクルを築けないので、強い強いフラストレーションが溜まり続けた。」のは、そもそも「リアルさへの強迫観念」が初めにあったゆえだったと思うから。だから、「何故リアルさへの強迫観念を持つようになったのか」の説明にはなっていない。
「何故」の話で言えば、遡ること11年前の大学受験浪人時代に苦労した話がその答えに近いような気がするが、でもその大学受験浪人時代に苦労したのは更に遡って小学生から高校生まで「普通の人」に対するコンプレックスがあったからだと思うし…と、このように、やっぱり深掘りしてもきりがないと今思った。そして、こんなこと全部書かなくてもいいはずで、それはやっぱり何かリアルであるということにこだわっているからだと思う。
「何故」の深掘りにはきりがなく、そしてやっぱり究極的には根拠もないのでわからないし、深掘りしていく、つまり遡っていくと、最初の現象に戻ってしまう、つまり循環していたりすることもあって、つまるところやっぱり、きりがない。そして、このようなことも、ここ最近意識していることで、この話は後述の②に繋がる。
◾️こだわりをなくしたら、何もなかったらどうしよう
ひとまず「何故」の話でなく、リアルでないといけない、という強迫観念を持った結果の話で言うと(いや、これも循環のうちの一部なのだけど)、先述のとおり、思うように制作ができなくて、フラストレーションが溜まっていった。そして、自分が思うような、「生きてきた時間」に対する「制作と喜び、その結果の人生の楽しさ・充実感」の密度がものすごく低い、いやもうほとんどゼロと言っていいような人生を今までは送ってきてしまった。その悔しさがあるので、この先の人生、それ相応の「制作と喜び、その結果の人生の楽しさ・充実感」を得て、密度がちょうど良くならないと割に合わないっていう気持ちが強い。
そこで、リアルでないといけないという強迫観念を抑えて、つまり自分から足枷を外して多少自由になったとする。その結果、何もなかったら怖い。そういうリアルさへのこだわりをなくしたら、もはや凡庸なものしか作れなかったらどうしようという恐怖が強い。いや、今がそういうこだわりのもと、非凡なものを作れていると思っていないとその考えになるのはおかしいな。そうは思っていない、何も作ってはこなかったけど、でも、今自分が何か他の人と違うと思っているのは、そういうこだわりがあるからだ。
先述のフレーズは、噛み砕いてしまえば「今までの人生のフラストレーションを一気に解消できるような満足は、一旦諦める。つまり、いわゆるサンクコストは諦めて、これからできることをやって、それなりの満足感を得ましょうよ」みたいなことを自分に言い聞かせているような感じなのだけど、やっぱりそれでも何か「それなり」には満足したい。こだわりをなくして、「それなり」の満足も得られないような結果になったらどうしよう。それが、怖い。でも、やってみないとわからない。
最後に、更に言えば、そういうこだわりと自分は、もはや切り離すことのできない、一体のものとなっている気もする。「リアルであるべし」というのが、もう自分の感性に染み付いているような気がするとでも言おうか。その方向性以外のことで充実感とか喜びを俺は得ることができるのだろうか?とも思う。これも正直、わからない。
②無作為にゴールを設定し、究極的には何でもいいから作るべき
①で書いたことの続きだけど、俺は何か強い強度のものを作り、強い強度の充実感を感じないといけないと思ってきた。その為に、「リアル」なことをしないといけないと思っていて、そのリアルへのこだわりから、ひたすらに自分を対象化し続けるとか、現在の自分のある状態の原因を、過去に遡って考え続けるとかいった強迫行為をするようになった。
恐らく、何かその強迫行為の先に、どこかに本質や、究極の原因みたいなものがあって、そこに辿り着けるかもしれないと思っていたんだと思う。しかし、色々もがいたけど結局今までほとんど何も生み出すことができなかった今の自分の結論としては、恐らく全人生を費やしても「本質や究極の原因」みたいなものにたどり着くことはできない。もしかしたら、そんなものないのかもしれないとすら思う。また、それがあって、たどり着いたとしても、自分にそれがそうだと検証のしようもない。「これがそうだ!」と思っても、次の日には「やっぱり違うかもしれない」とか「いや、更に上位の本質がある」とか思うような気がする。何と言うか、神様でもない一人の人間が生きている間にできることではないのだと思う。
で、それを踏まえて最近思うのは、何か「ゴール」は無作為に設定しないといけないのかもしれないということだ。そしてこれは、①で言いたかったことの具体論だ。
今後、本質や究極の原因みたいな、そういう概念をざっくり「リアル」と呼ぶことにする。で、つまり、「リアル」にはたどり着けないのだけど、少しでも近づくことができるとすれば、リアルでないことをすることだ、というのが①の主張なのだけど、そのリアルでないことの一部、つまり具体論としてこれを考えている。
ここまでの話は、俺の東京タワーを書く上での自分の気持ちについてだったので、俺の東京タワーの話になるけど、究極的に言えば「何でも良いから作ればいい」のだと思う。俺は圧倒的に作らなすぎた。その結果発表することができなさすぎた。何でも良いから、リアルを書けなくてもいいから、作って発表すれば、リアルに少しだけ近づくことができるはずだ。
リアルを完成のゴールの設定にしない。無作為に「いつまでに何ページ何か書く」みたいな設定にすればいいし、しないと書けないと思う。そういうことを言いたかった。
③今後の方針について
以上が俺のここ最近の無職期間で考えてきたことだ。ここまで書いたが、俺の東京タワーの内容の話が一切ない。何か自分で愕然とするものがある。しかし、「俺の東京タワー」の中にこういう人生論というのか、制作論というのか、それがもう入っているような気もする。
俺は昔、美術大学の油画専攻の学生だったのだけど、卒業制作で学年トップ5が獲れる優秀賞があって、その賞に選ばれた同級生の男がいた。
中村一美っていう、何だかよくわからないけど、外見の雰囲気と、使っている日本語の難しさから何かすごいっぽいというか、本質を言っているっぽい雰囲気のアーティストの先生がいて、その同級生の優秀賞の推薦コメントみたいなものをしていたので、多分その同級生はなんか本質っぽいことを捉えている人だったのだと思う。
俺は、当時愚かだったから、無防備に、当時から既に考えていた「俺の東京タワー」プロジェクト的なことを彼の前で話してしまった。彼と同じ授業をとっていて、その中で自分の制作とかについて40分くらいかけて発表するっていう機会があったから。
今でも覚えていることがある。発表の時、彼はすごい興味なさそうに俺の話を聞いていた。また、聞きながら何か哲学書みたいなのを読んでいたと思う。そして、発表が終わった後、最後彼から「要は自己啓発だな」と吐き捨てるようにコメントをいただいたのだ。
当時、何だかわからないけど強いダメージをその言葉に受けた。また、大学を卒業してからも、たまにその言葉を思い出して、傷ついている。そして、今は昔よりもより強く、その言葉のダメージを受けている。何だか、昔よりも少し言っていることがわかるような気がするからだ。この「自己啓発」の意味について、あえてコメントはここでしないというか、あんまり深く考えたくない。今後、俺の東京タワーを書いてからもう一度考えてみようと思う。
さて、今後の制作の方針を書く。
まず「俺の東京タワー」という映画の脚本を作る為にこのホームページを作ったのだけど、ひとまず映画の脚本にするという意識は忘れようと思う。多分、最終的に映画の脚本になるとは思うのだけど、本当に映画というメディアがいいのか、やっぱりまだ迷っているので、まずは決めないで、今まで考えてきたメディアや、シナリオや表現のアイデアをここに記事で書いていこうと思う。その方が、色々自分で発見があると思うので。
また、その前に、そもそも俺の東京タワーって何なのか、という話を自分である程度整理しないといけないと思っている。実は、自分の中で答えが出ていないのだ。そして、少なくとも過去10年間心の中で温めてて、温めすぎて、忘れてしまったことも多いから、思い出して、整理して、ある程度の制作の方針みたいなものを、メディアの選択と一緒に考えないといけない。
で、俺の東京タワーって何なのか、という話なのだけど、これを整理する為には、自分の過去を思い出していく必要がある。この記事で書いたとおり、終わらない深掘りはしないつもりだけど、ある程度、「あたり」みたいなものはあるので、なんとなくそこを思い出して書いていこうと思う。
で、これらを踏まえて次のとおり今後進めていこうと思う。
①今継続して書いている記事「「俺の東京タワー」とは何か。そもそも私は何者か」の続きを書いていく。
→自分の過去を思い出していく意味で、今後続きを書いていく。自分の過去をあたりをつけて振り返り、俺の東京タワーってどうやって自分の中で生まれた欲望だったのか、つまり何なのかを振り返る。
②上の①と並行作業になるかもしれないが、具体的な表現方法(シナリオ案とか)や、表現するメディアを考えていく。
③実際に作って、何か発表する
以上です。楽しんでやっていきたいと思う。
