ここ最近で思いついたことをまとめた

空港の画像

 ここ最近、俺の東京タワーについて、色々悩んだり、思い出したりしたことがあった。そして、発見もあったので、ここに書いておこうと思う。

 とりあえず、ここ最近に書いたメモを、日付順に下に並べた。何か感情が動きすぎて、結局何を感じて何を思い出してどういう教訓を今後に得たのかよくわからなくなったので、整理したいと思う。

 なお、メモには個人名などプライバシーに関わることもあったので、本名とは何も関係のないイニシャルに修正した。なお、著名人については修正していない。また、あくまで個人的に書いたメモなので、わかりにくい箇所についてはちょっと加筆した(例:伊集院→伊集院光 など)

 あと、このメモを書いた時の出来事も、日付の横に記した。なるべくメモを書いた時の感情の感じを思い出したかった為だ(斜体の箇所がその日の出来事)。

 以上、並べた。
 さて、このメモたちについて振り返るというか、まとめてみる。

1.俺の東京タワーをどうやって作るか、について悩んでいる

 俺の東京タワーをどうやって作るか、について悩んでいる。悩みは、「アイデアが思いつかない」というものではない。

 とりあえず作る、ということなら、もはや俺にはできるだろうと思う。そのくらいアイデアはあるのだけど、俺が求めている「救い」が、作ることで達成されるかは別の話だ。
 俺の救いは、何か「いい作品」「面白い作品」を作ることになさそうで、「作品にて自分の全てを説明できたか」にかかっているとどうしても思える。そもそもこの前提が正しいのか疑わしい気もするのだけど、それは置いておくとして、「全てを説明する」には、どうすれば良いのかを悩んでいる。

 この「全てを説明する」ということについては、ずっと悩んできたことで、ただひたすらに今まで考えてきたことを羅列すればいいのか、と言えば、そうではないとはっきり感じる。やること自体は可能かもしれないが、そういうことをしたいのではない。
 当然、何かを整理をして、取捨選択をして、構成をしないと他人には伝わらないだろうと思う。そうでないと、何か伝えることはできない。

 しかし、やはり全て伝えたいものだから、整理・取捨選択・構成をしたうえで、「全て伝えた」と自分で認めることができるような方法を採りたいと思っていて、だから、羅列すればいいわけではないことはわかっている。

 その方法ってどういうものだろうか、という悩みがあって、思いつくのは、当たり前のことなんだけど、自分が今持っている過去にまつわる物とか、昔書いていたブログとか、確認できるものは全部確認して、それらをリストアップしていく。そして、その物や情報にまつわる、伝えたいことを取捨選択していくことだ。

 しかし、ここからの話も重要で、俺の人生は有限で、体力もお金も有限で、自分の能力も有限である。必ず何をするにも制約があるんだ。それも、思った以上に制約がある。本当に思った以上だ。
 例えば、過去のものを全部集めて、リストアップする。そんな面倒臭いこと俺にはできないんだ。ほどほどにはできると思う。でも、100パーセントはできないだろう。ここを昔は、認めることができなかった。理論上不可能でないならしないといけないと思っていた。というか、今でもちょっと思っている。

 昔、劇作家の井上ひさしが、何か戯曲を書く時に膨大な資料を集めて研究するように書いていた映像を見たことがあるのだけど、多分、そういう感じのことを自分に対してしないといけないんじゃないかって思っていた。それが「全て伝えた」と言う為に必要なことだろうと思っていた。しかし、そんなことやりたくないのである。

…うーん、何か脱線してしまった。わけわからなくなっちゃった。ごめん、まとめます。

 救いは、言いたいことを全て言うことにあり、その為には、自分にまつわる全ての資料を参照する必要があると思ってきた。

 しかし、言いたいことを全て言うことはできないのだと最近は思っている。何故なら、死ぬまでこんなことをやりたいとは思っていないし、死ぬまでやっても言いたいことを全て言うことはできなさそうだからだ。
 つまり、自分の資料を参照することは死ぬまで終わらないだろう。やろうと思えば無限にできるのだ。これは文字通り無限にできる。何故なら、何を以て、「何かを参照した」と言えるのかわからないからだ。多分、どんなことも、やろうと思えば無限に参照できてしまう。言い換えるなら、何か言っても、必ず言い足りないことが出てくるだろう。

 死ぬまでこんなことをやりたいわけではないし、そもそもできないのだ。そこで、期限を設けて、その日までにやろうと思った。その有限の制約の中で、「できる限りやった」と思えるようなことをしたいと思った。結局自分の納得感が大事だと思った。

 で、具体的に、過去の資料を参照するにあたっては、その時の自分の判断で、取捨選択をして、優先事項をつけてやっていくしかないだろうというすごーく当たり前のことを、思ったのだった。とにかく、判断していくしかないのである。結局絶対的な根拠なんてないのだ、多分。こういうのを決断主義って、言うのだろうか。

2.workflowyの使用について悩んでいる

(1)日付ごとにまとめているテキストを切り貼りしてバラバラにすることに抵抗がある

 workflowyというアウトラインプロセッサーを使って、俺の東京タワーのメモやタスク管理などをしている。俺の東京タワーのアイデアについて、workflowyにて、思いついた日付の項目を作って、そこに書いている。

 参考にしているのは、千葉雅也さんという人のとあるネットの記事※1と、その人に対してアウトラインプロセッサーの使い方についてインタビューをした内容が載っている本※2だ。そこでは、何かを作る時に、まずはフリーライディングをしてから、テキストを切り貼りしたり、組み替えたりして、アウトラインを作っていくというやり方を紹介している。

 この人だけでなく、アウトラインプロセッサーを使って本とかを書いている、他の人の本とかも色々読んだんだけど、みんなそういうやり方を大体している。俺もそうするべきだと思うんだけど、どうしてもここに引っ掛かることがあってずっと悩んでいた。

 と言うのも、千葉さんが本の中で、プロジェクト名の下に日付ごとに思いついたことをメモしていると書いていて、それも俺は真似して、同じようにしている※3。

※3 俺のworkflowy画面。こんな感じで、アイデアを思いついた日付ごとにまとめている。

 しかし、前述のとおりその後、それを自由に並べ替えたり、ノイズと思われるものを削除したりして、洗練させていくと書いてあって、そこでどうしても引っ掛かることがある。

 この辺りはもしかしたら、俺が昔から持っていて、人生があんまり上手く行かない原因であろうところの「こだわり病」みたいものなのかもしれないのだけど、日付ごとに整理していたものを並び替えたら、そのアイデアをいつ思いついたのか、どういう流れで思いついたのかということがわかる日付の情報が失われてしまうのだ。そこがどうしても引っかかってしまう。

 いや、もしかしたら切り貼り、組み換えなどをする時に、一つ一つのテキストに日付を入力して、バラバラになっても一つ一つのテキストがいつのものなのかわかるようにはなるかもしれないけど、そんなんやるの面倒くさいし、第一もうバラバラの日付のものを見ても、それらは何か情報として意味をなさないだろう。

 だから、やっぱり日付ごとに並んでいるものをいじくり回すのは抵抗があって、じゃあバックアップをとって、いじくりまわす際はコピーしたものをいじくりまわせばいいのでは、という話になると思うんだけど、それもずっと抵抗があった。
 と言うのは、それをすると情報が無限に増えていく予感がするからだ。コピーをとって、何かを並び替えたとする。それがまたひとつのテキストになって、さらにそのテキストをコピーして、それと他のものと組み合わせて何かを作ったりしたら…収集がつかないと思う。

 テキストを整理はしたいけど、バラバラにするのは嫌だ。しかし、全てを保存しようとするとわけがわからなくなると思う。

 そこで、workflowyはあくまでも「テキストのピースの保存場所」と自分で意識することにした。ここに材料は揃っている、という安心感を常に持ちたいのだ。組み替えたり切り貼りしたりするのは、別のソフトを使おうと思った。

 千葉さんはじめ多数の人は、workflowyなどのアウトラインプロセッサーなどを、すべて1つソフトの中でテキストの作成、組み換え、構成を一通り行い、その後にちょっとワードっぽい要素強めのソフトに移行して書いていくみたいだけど、俺はそうじゃなくて、テキストの保存場所としてのアウトラインプロセッサー構成や組み換えの場所としてのアウトラインプロセッサーというように、2つに分けようと思った。

 2番目の作業場所を分けることで、ここは自由に組み替えたりしていいし、消したりボツにしてもいい場所なんだ、と意識を使いわけることができる。だから、無限に保存しないといけないという意識はなくなるし、情報が増えてわけがわからなくなることが少ない「気がする」。もしかしたら、やっぱり何か全て保存したくなるかもしれないけど、やってみないとわからない。

(2)何を以って「完了」したと言えるのかがわからないから、コンプリート機能を使えない

 あと、上の話から繋がるんだけど、俺のベースにあるのは「全て伝えたい」だが、「全て伝えたかどうか」は、何と言うか自分が瞬間的に「そうだ」と思えるものではない。なんだろう、全て伝えたいのだけど、その全てが何なのかは、自分ではわからないのだ。
 で、自分が過去に書いたものや思ったことを全部参照できているか、が全て伝えたかどうかの判断材料になる。全部羅列して書くことはできないし、そんなことしたくないんだから、あくまで全部参照して、自分で取捨選択して、まあ「できる限り頑張った」ということが大事なんだけど…ちょっとわからなくなってきた。

 なんか、言いたかったことは、workflowyのコンプリート機能の話についてだ。選択したテキストに打ち消し線(こんなやつ)をつけることができる機能で、千葉さんが、もういいと思ったものはコンプリートをして、完了したという意識を持つと書いていたんだけど、やっぱり何を以って「完了」と言えるのか自分にはわからない。

 何を以って参照したと言い切れるのか。多分、これはやっぱり俺の「こだわり病」に起因するものだ。自分のこだわり病にも色々あるんだけど、そのうちこの手の症状は、2013年の美大浪人時代に発症したと思っていて、何かを作る時に「何となくこんなもんでしょ、常識的にさ」みたいなことができなくなってしまった。※4
 原因はよくわからないのだけど、とにかくその時以降そういう判断ができなくなってしまった。うまく生きることができなくなっちゃったんだ。

2012年(高校3年時)の自画像
2013年(浪人時代)の自画像

 なんか、何を以ってコンプリートしたと言えるのか今は判断できないし、もしかしたら後になって振り返ったらこのテキストのことについてはまだ参照できる余地があると思うかもしれないし、それはそれとして置いておいて、とりあえず現段階では打ち消して…みたいな器用なことは頭がごちゃごちゃして上手くできない。
 「全て伝えたかどうか」は、何か具体的なものがあって、それを全てコンプリートしたことでそう自分で言えると思うんだけど…。

何か、とにかく、workflowyを使って、コンプリートをして…みたいなことは、今の俺の頭ではできないのだ

 こんな投げやりな結論ってあるだろうか…。

 ごちゃごちゃ書いてきたけど、何かを作ると言うことは何かを整理し、選択して、消していくという具体的な作業だ。その作業と、俺の性質が致命的に食い合わせが悪いんだ。何か俺の頭では、上手くできないのだ。俺は、過去や自分を失うことがとても恐ろしくて、ちょっと前のことも全部情報というより思い出になってしまって、それらをいじくりまわしたりすることができないという病気を持っている。

 ここのブログに書いてきたことだけど、「リアル」みたいな、純粋に生(なま)なものを示さないといけないんだって、そういう強迫観念がどうしても強くて、一体これって、本当になんなんだろう。どうしたら俺は上手くいくのか、どうすれば俺は俺を説明できるのか、どうすれば俺は俺を説明できたと認めることができるのか…。

 今具体的に悩んでいることを一つ挙げると、昔のガラケーに入れていたmicroSDカードを自分は持っていて、それらのデータをPCに入れたいんだけど、入れた瞬間にそのデータひとつひとつに、そのmicroSDに入っていたという情報が抜けてしまう気がするのだ。
 抜けないためには、「2013年microSD」みたいなフォルダを作成し、そこに格納すればよいのだと思う。しかし、やはりデータを整理する際にはそのフォルダ以外の画像とごちゃ混ぜにして、何か情報を位置付けていく必要がある。

 じゃあコピーして、整理するっていう先述のworkflowyみたいなことをする必要がある。しかしそんなことを繰り返してもいたちごっこなのだ。またその整理したデータも思い出となってしまい、どんどんネズミ算式?にデータが増えていくのだ。

 こんなことに悩んできた。本当に、極論を言えば、こんなことに悩んできたのだ。これこそが俺の東京タワーだったとすら、言える。自分しか気にならないことなのに、そこにずっと囚われてしまって、何かを作ることの美味しいところを全然上手くできなかった。

 これまで、ずっと。もう、30歳になってしまった。何も作ってこれなかった。本当は作りたいものがいっぱいあった。何と言うか、俺は過去というものの使い方が、まだ上手くできない。2013年まで、他の人に比べてあまりにも過去を大事にしてこなかった。大事にするという発想がなくて、大事にするという方法を知らなかった。それ以降は、その逆で、100パーセント大事にするという方法を取ることしかできなかった。ちょうどよくしないといけない。

 何の話だっけ。workflowyのコンプリートの話か。コンプリートは、上手く使えない。ただそれだけの話だった。コンプリートしない代わりに、エクセルで表を作って、参照したテキスト・その日付をメモすることでとりあえず「一回参照した」というような確認はできる…などと考えたが、今思ったがめんどくさ…。

 結局、なんとなく、いい感じに。それしかないのかな。2013年からできなくなったこと。なんとなく、いい感じ。なんとなく、いい感じ。それしかなさそうである。俺が想定するようなことは、できないのかもしれない。

3.「過去がないことの劣等感」があることは知っていたが、「過去がもう現在にはないことの寂しさ」も持っているのだとわかったことについて

 自分はずっと、「自分には過去がない」と思ってきた。この「過去がない」というのは、ちょっと人に説明するのが難しいのだ。
 俺は「過去のモノ(電子データも含めて)」をなくしたり、捨てたり、捨てられたり、汚したり壊したりしてきた。このことが強い劣等感なのだ。他の人は、意味がわからないと思う。

 そして、「過去のモノ」を大事にしてこなかったことは、「過去そのもの」を大事にしてこなかったとも言える。何か、過去がとにかくないのである。上手く言えない。多分、この話は、自分一人だけで深く話すことができない。一人で考えると辛い。誰かに対面で話を聞いてもらう形でしか話すことができない。恐怖や悲しみと言った強い感情と結びつきすぎて、一人で進めることができない。

 このくらいにしておくが、この「過去がないことの劣等感」が俺の劣等感の根幹であることは確かだ。俺は、やっぱり根強い劣等感を今でもずっと持っていて、この「過去がない」ことがバレたくないと思ってしまうし、バレたら見下されると思ってしまうし、バレても見下さないのであれば、そんな感性を持ったそいつを、逆に俺が見下してしまう。俺は、回避性パーソナリティ障害と社交不安症を持っていると自覚しているし、昔精神科の医者にもそう言われたことがあったんだけど、その原因の一つはこの劣等感だろう。

 この感情を持っていることはずっと知っていたのだけど、「過去がもう現在にはない」ということの寂しさもすごく強いんだとわかった。これは、自分には当たり前のことすぎて、逆に意識してこなかった。
 昔から、夜中に急に目が覚めたりした時に多いのだけど、急に「高校生の時って、どこにいったんだろう。もう二度と戻ることも見ることもできないのか!」とか「中学生の時って…(以下同様)」とか思って、本当に胸が苦しくなることが多かった。
 その、胸が苦しくなる過去というのがすごく楽しい思い出であったのならば、もう一回戻りたいなあみたいな素朴な気持ちとして理解できるんだけど、何かそういうことではなかった。何でもない高校の通学中の地下鉄の記憶とか、塾の帰りに一人でダイエーに行った記憶とか。そういう、何でもないようなことに対して、その過去がもうないことが苦しくなった。
 単純に楽しい記憶に対しての切なさなら、まだこれからの人生でも楽しいことがあるかもしれない、つまり、代替性がありそうな感じがするんだけど、俺の切なさは何でもないような記憶に対してのものでもあった(楽しい記憶に対しての切なさも普通にあったけど)。だから、ただただ、もう取り返しがつかない。この切なさな、もうどうにもできないのだった。

 この切なさは、何となく劣等感のうちの一つだと思っていた。しかし、どうやらこれは劣等感でないんだ、ということが最近わかった。独立したものなのだ。いや、ギリギリ独立している…かもという感じ。かな。
 何が切ないって、俺はとにかく過去のモノがない。単純に過去にまるわるものを整理してこなくて、いつの間にかどこに行ったかわからなくて、おおよそは母親に捨てられて、一部は自分で捨てたり無くしてしまったりした。
 やっぱり何か、同年代を生きた、同じ階層?というのだろうか、同年代の同階層の人間から比べて圧倒的に「過去がない」。そういう意味で、やはり他人との相対的な何か苦しみだから劣等感なのかもしれないんだけど、でもその中にやっぱり単純に「ただ過去がもう今はない」ことの苦しみもあるだろうと思った。
 そうでないと説明がつかないような自分の気持ちがあって(夜中に急に昔を思い出して苦しくなったりすること)、ここ最近は無職で精神に余裕があるからか、とみに思い出してしまい苦しくなる。他人との比較の苦しみが強すぎて混乱してしまうのだけど、よく見ると他人とは関係ない独立した苦しみもあるように見えたのが、最近の発見だった。

 最近考えたんだけど、もし江戸時代、いや、もっと後の昭和時代でもいいんだけど、そのあたりに生まれていたら他人との比較の苦しみはあったのだろうか?恐らくあまりなかったように思う。そもそも近代の情報である、写真や電子データというものが、あまりにも生み出しやすく、そして消えやすいことが問題なのだ。持ち続けることができる人とできない人の差が圧倒的についてしまう。江戸時代なら、こうはならなかった。

 さて、そこでなのだけど、ここからちょっと自分語の話になっていく。俺は、もう10年以上、あまりにも孤独に、自分と対話をしすぎてきてしまって、俺の中では前提条件すぎるのに、他人には1から説明しないといけないことがとても多くなってしまった。
 共通の日本語を使っていても、何かの言葉に自分独自の意味をつけてしまっていることがある。それを俺は自分語と呼んでいる。自分語っぽい話をする時は冷静にならないといけない。人にも伝わらないし、だんだんと自分でも何がなんだかわからなくなってくる。というか自分はなっている。なんか、自分語はちょっと不思議で、だんだんと自分でも何が何だかわからなくなってくるのだ。多分、それは自分の中で閉じ切ってしまっているからで、誰かに話していくことで思い出すような、そういう感じのもの(?)なんだと思う。

 「アルジャーノンに花束を」の主人公のチャーリー、画家の石田徹也、誠実、青、タテタカコの曲「宝石」、映画「誰も知らない」、18歳のような気持ち、高校時代の美術部のS先生

 上の言葉たちが自分語だ。何か、書き連ねるとそんなに「自分語」でもないような気がしてきた。普通に説明ができる気がしてきた。何か、もったいぶってしまった。特にここに深淵はない感じがする。

 俺は、過去がない人間だという劣等感があり、そして過去がもう現在ないという寂しさを持っている。この2つが俺だ。この状態でこの先の人生を過ごし、おじさんになり、そして老人になる。死ぬ前、意識がなくなるその瞬間までこの状態が続くのが、恐ろしかった!

 俺は2015年の夏の終わりに「いつか死んでしまう」ということが突然ものすごく恐ろしくなった。記憶だと、2週間ほど相当な恐怖感の中にいて、その後2ヶ月くらいを、相当ではないがじんわりとした鬱の気分の中にいた。自分の中でその頃をプチ鬱期間と呼んでいる。

プチ鬱期間中、2015年9月6日の写真。大学は夏休みだった。一人でいると辛くて北海道に帰り、確か10日くらい過ごしたあと、東京に帰った。帰りの新千歳空港にて撮った。

 このプチ鬱期間が、何故唐突に訪れたのか、今までよくわからなかったんだけけど、今これを書いている瞬間にもしかしたらそうかもしれないと思ったことがある。
 アレは、いつか死ぬことそのものを恐れた…のではないのかもしれない。いや、確かにいつか死ぬことは絶対的に恐ろしいことなのだけれど、だけど、本当は前述のとおり、息を引き取るその瞬間まで過去がない劣等感、過去に戻ることがもうできない寂しさに苦しむことが恐ろしかったのかもしれない。
 いつか死ぬことが怖かったのは確かだけど、俺は「石田徹也」「チャーリー」的に死ねれば死を克服できると思った。いや、順序が逆かもしれない。「石田徹也」「チャーリー」的に死にたいというのが先にあって、それが無理だとすれば死ぬのが怖い…という順序かもしれない。どちらが先かはわからない。
 なんか、これは俺の本質というか、剥き出しのネタバレって感じがする。ちょっと自分語の世界に入り込みすぎて、自分でもよくわからなくなってきた。

 上の自分語は、全部何か大人ではなくて、生(なま)の今を生きていて、18歳くらいの感じがする。青春っていうと陳腐な感じがするけど、何かこう、「生(なま)の今を生きている」感じがする。
 つまり、この人たちは今「過去」の最中なのだ。俺は、2015年にもう「過去」は終わったと思ったのだと思う。それが何か死の恐怖に繋がったんだと思う。俺は、まだこれから「過去」を作りたかった。「過去」は、「今がこの先過去になる」という自覚がない時を生きることだ。そして、今がいつか過去になることを自覚し始めたら、大人になる。おじさんになる。
 俺は、死ぬまで過去でいたかった。いや、それは贅沢かもしれない。でも、2012年に、もしかしたら「はじまりは今」かもしれないと思った。

 思い出した。2015年のプチ鬱が終わった時のことを。確か、2015年の10月の終わりくらいだったと思う。夜6時くらいの、すっかり暗いアパートの中で、電気もつけずに床で寝ていたような気がする。その時、何かアイデアが急に閃いて、頭の中に電流が走ったような記憶がある。
 あと、2年。あと2年は、もしかしたら生きることができるかもしれないって思った。それは、武蔵美の大学院を受けるまでの2年間だった。あと2年は「過去」を生きることができるかもしれない(過去がもう今ないことの寂しさから逃れられるかもしれない)と思った。あと2年は、過去を作ることができるかもしれない(過去がない劣等感を払拭できるかもしれない)って思った。
 そして、このぐちゃぐちゃな俺を作ったのは、浪人時代に好きになったAさんだった。いや、もともと俺はこういう人間になるべく下地があったんだけど、完成させたのがAさんだった。
 この大学院受験までの2年間にやろうとしたことが、「俺の東京タワー」の始まりだった。ここが源流なのだ。失敗に終わったのだけど。失敗というにはあまりにも、失敗すらしなかったかもしれない。うまくできなかった。

 今俺は、俺の東京タワーをこれから書いたところで、その間で、何か「過去」を作れるとか、「過去」を生きることができるとは思わない。しかし、逆に書いた後に何か起きるかもしれないと思う。もしかしたら、この先過去を作ったり、過去を生きることができるような瞬間が来るかもしれないと思っている。

 …ちょっと暴走しました。自分の気持ちの整理にしろ、人が読んでも何か伝わるように書きたかったんですけど、多分意味わからないと思います。すみません。でも自分的には何か言語化できたので、今後の制作に活かそうと思います。

4.自分というものは、一枚の絵に描くことができない

 俺は(というか人間はみんな?)「一枚の絵に描くことができない」構造をしていると思う。
 この「一枚の絵に描くことができない」というのは、最近読んだとある本にあったフレーズで、その本では「世界は一枚の絵に描けるような構造をしてはいない」とある。

 その本の意味とは恐らく違う使い方をしているんだろうけど、何かこの「一枚の絵に描けない」というのは自分もそうなんじゃないかって思う。
 今この時点、この角度からしか自分というのは捉えることができなくて、「全部見る」みたいなことって不可能なんじゃないか。
 「すべてわかった!」みたいなことってないのではないか。わかる時にはわからないことがあって、わからない時にはわかることがあるのではないか。見える時には見えないものがあって、見えない時には見えるものがあるのではないか。わかる時には必ずわからなくて、わからない時には必ずわかるような。絵画を見ている時、描かれているキャンバスの裏は見ることができないような、何かそういうものなんじゃないかっていう頭が悪いなりの直感がある。

5.中道的にやっていきたい

 本当は俺は女とやりたいだけなんじゃないかとも思うし、人生をうまくやっていきたいっていう気持ちもあるし、普通になりたいっていう気持ちもあるかもしれない。なんかそういうのも含めて全部俺なんだと思う。なんか、2015年からのことはそういうことがわからなくて、失敗したんじゃないかと思う。

 2015年からと同じ失敗をしない為には、今後は中道的にやるしかないかなと思う。真剣になりつつも気楽にやろうと思う。マジになりつつも、本当は全部どうでもいいと思うような、そういう感じでやりたい。

以上!

この記事を書き出してから一週間くらいかかってしまった。ここ最近のメモについてまとめると冒頭で書いたけど、記事の投稿の時点で、ここ最近のメモではなくなってしまった。時間がかかりすぎた。


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